自分の仕事のために生きるということの限界と絶望と希望 - 『風立ちぬ』を観てきた

『風立ちぬ』を観てきた。

これだけの話題作になると、普段映画を見ない僕にも
評論やら付随情報やらが沢山入ってくる。
宮崎駿監督の引退作で、この世界は生きるに価する…みたいなメッセージがある、みたいな粒度で。
そういう意味では、よく分からなかったけれど。

(以下ネタバレ含む。)

自分の仕事のために生きるということ

ひたすら二郎に感情移入して、見た。
二郎は仕事中毒者だ。その仕事の意味にもある程度思いを馳せているのかもしれないけど、美しい飛行機を要求水準ないしそれ以上で作ることに全意識を傾ける職人タイプ。それかロマン主義なのか。

結核の婚約者が吐血したら速攻で会いに上京する。でも頭には仕事が残っている。仕事道具を持って汽車でも仕事。一目見て抱きしめて、またすぐに終電で飛んで帰る。翌日の仕事姿に一寸の迷いも見えない。

病院を抜けて自分に会いに来る菜穂子を、おそらくロクな情報もなしに的確に迎えに行ける共感力はあるけれど、仕事を捨てて療養先に自分が行くという発想はまるでない。結婚してない男女が一緒に住むのは…と懸念を示されると今すぐ結婚するとノータイムで返す。結婚して一緒に住めるようになったから早く帰ろう…なんて発想はない。せっかく帰ってきても朝から晩まで仕事。遅く帰ってきて一緒の時間を過ごすと思いきや部屋でも仕事。手をつないだままでいたい菜穂子の要望に応える形とはいえ結核患者前で煙草を吸う。ガマンしろよ。

『風立ちぬ』は、才能があって自分の仕事をせずにはいられない男が、高い共感力と合理性に基づいた最適化で「仕事と恋人の両立」を図ろうとする限界と絶望を描いた映画、として自分に響いた。仕事も家庭も100%なんてありえないし、たとえ恋人が不治の病だって仕事を辞めるなんてことはできない。恋人との時間も限りがあるし、飛行機設計士としての時間もない。戦線離脱してもどってこれるような世界じゃないだろうし、敗戦必至であることを察しているなら設計士としてのリミットは敗戦時、そう遠い先ではないことは自覚していたはず。
そんな場面にでくわしたときに、シンプルに考えたらどちらかに絞るべきだしそれがスタンダードなのだと思う。仕事を捨てたって、恋人のケアを捨てたっていい。責められるどころか美談にだってなりうる。それでも両立させずにはいられない人間がいるし、それに絶望するべきでもない。それでも生きなければならない。人生ってどうしてこんなに難しいんだろう。

そこで「創造的人生の持ち時間は10年だ」という言葉がずっしり来る。あと何年残っているんだ。絶望している暇も逃げている暇もないし、仕事だけ!とかプライベートだけ!なんて決め付ける必要もない、のだろうなぁ。

最後の菜穂子の姿はただの理想なのかもしれない。男の勝手な妄想にも見える。でも、そう思わずにはいられないし、そう思ったっていいんだと思う。生きろって言われていると思って生きる。それで納得できるなら、それでいいんだと思う。

最高に大切なことと、それに次ぐけど最高に大切なことを両立させて、行き詰まりを感じたりして、先行きも決して明るくない。それでもよい仕事をして、大切なことはできる限りにおいて最高に大切にして、やりきって絶望して死ぬんだ。それまでは生きるんだ、と思わされたような気がする。若くして逝ってしまう身近な人を想いながら、それでも生きる。それが大人になるってことなのだろうか。


考えてみると、荒井由実『ひこうき雲』がエンディングなのはベストマッチだ。飛行機と夭折の話に『ひこうき雲』とか、反則レベルでしょ。ボロボロ泣いた。カップルだらけで満員のバルト9で。「えっお前泣いてんのー」なんて言いながら戯れるカップルを横目に、一人打ちひしがれた。そんな週末も、悪くない。